
室町時代後期に今川氏に仕えた連歌師宗長ゆかりの寺で、周囲の山々を景色に取り入れた借景式の庭園は、国の名勝・史跡にも指定されています。
泉ヶ谷の歴史を伝える重要な史跡で、柴屋寺の竹林は京都嵯峨の竹を寺の東山に移植したものと伝わっています。旧暦の8月15日の晩には、その東山から吐き出されるように月が出てくることから「吐月峰(とげっぽう)」という名がついたと言われています。
本堂から南方向には丸子富士、北側には天柱山を眺めることができ、これらを風景の中に取り入れた借景式の庭園は、国の名勝・史跡に指定されています。

かつてこの地域では、竹を使って様々なものがつくられました。その中のひとつが「灰吹き」と呼ばれるもので、現在のような紙煙草が普及する前に吸われていた煙管(きせる)の灰を落とすために使われていました。江戸時代には「吐月峯」の焼き印が押された灰吹きが多く流通していたことから灰吹きを「吐月峯」と呼ぶ方も多く、この焼印が押された灰吹きは今でも作られています。

初代の住職「宗長(そうちょう)」は、この地域を治めていた守護大名今川家に仕えていた連歌師です。
宗長は京都で一休宗純(いきゅうそうじゅん)のもとで禅を学び、連歌師宗祇(そうぎ)の弟子となって連歌を学んでおり、駿府に戻ってこの地に草庵「柴屋軒」を建てました。
柴屋寺には今川氏や一休宗純にまつわる品をはじめ様々な宝物が保管されており、足利義政が宗長に贈ったとされる文福茶釜(ぶんぶくちゃがま)には、たぬきが釜に化けていると客が勘違いしたという逸話が残っています。



連歌とは、五・七・五の上の句と七・七の下の句を詠み合っていく形の歌。宗長が詠んだ「武士(もののふ)の やばせの船は早くとも 急がば廻れ 潮田の長橋」は、「急がばまわれ」ということわざの元となったとも言われています。
利用時間 | 10:00~16:00 |
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